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ほぼ廃人と化した女が吐く、ネガティブ詩や散文
「じゃあまたね、バイバイ」

友人とそう言って別れるとき
いつも
「またね」はもうないんじゃないか、と思う。

ひとりになった私の中で
いつも
今さっき別れたばかりの人が消えてしまう。

ぷつり・・と音を立てるように
本当に心の中にいなくなってしまう。

だから、この世の中に、いつもひとりぼっちで
とても寂しい。

誰もいない時を、緊張したまま
ひとりで過ごす・・・・・。

誰かに依存し続けることなど、到底出来ない。
だから、ひとりぼっちを敢えて選ぶ。

寒くて寒くて、堪え難い。

対象恒常性の欠如・・・・・。
これ、痛いよね・・。

またね・・・またね・・・・・

本当にまた、会えるのかなあ・・・
もう二度と、会えないんじゃないかなあ・・・
と、いつも思ってる。

対象恒常性ー幼少期、母親がそばにいないと不安に陥る子供が
次第に、自分がどこにいても母親はいつも心の中にいる、と
「内的対象としての安定した母親像」が、子供の中で確立されること
M・マーラーより

繋がってる感の欠如
121024_1712~01

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FC2blog テーマ:メンタルヘルス - ジャンル:心と身体

【2012/10/29 03:39】 | 深層心理
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bisuko
こんな考えの人もいますという、一例を。

私は言葉を素直に受け取りがちなので・・・

「またね」は本当に「またね」だと思う。
(希望のもてる状態)

「機会があったら」の場合は
「ん?機会がなかったら、会わない?」と思う。
(所詮、ついで程度?と受け止める)
相手が私の事情を慮っている場合もあるので
言われたら「機会・・・作りましょう!」と答える。
前後の言葉とか、互いの事情にもよるけれど、
危険性の高い言葉だと思う。

「また誘ってね」と言われるともうダメ。
誘わない限り、向こうからの働きかけはないの?
(やんわりシャットアウトと受け止める)
これも前後の言葉とか、互いの事情にもよるけれど
危険な言葉だと思う。

ということで・・・私が「またね」って言ったら
本当にまた会いたいと思っているのですよ・・・

ではナレイさん、またっ ^^

Re: bisukoちゃん
ナレイ
コメント、ありがとう~♪

>機会があったら」の場合は
>「ん?機会がなかったら、会わない?」と思う。
これ同感!
てか、完全にこれは社交辞令 と私は受け取る。

>「また誘ってね」
これはそれこそ互いの事情で、
私の場合、周りの友人のほうが私より常に多忙なので
本当に会いたい と思ってて、なお且つこう言うしかないときが多々あるかな。

でもbisukoちゃんの「またね」は
いや、他の親しい友人の「またね」も
本気の「またね」なのはわかってるんよ。

私も本気で「また会おうね」と言う気持ちで
「またね」と言ってる。

頭でそれがわかってるのに、深層の部分でどっか
(もう会えないんじゃないか・・・)と感じてしまう自分がいるの。
それを自分なりにひも解いてくと、
幼少期の「対象恒常性」の確立に失敗してるなあ・・・と
思い当たるんよ。

母は私が幼い頃、私を置いてずっと死のうとしてた時期があったから。
ああ・・・まさに「安定した内的対象」を確立する時期に
母は不安定だったんやなあ・・と思ってね。

べつに母を責めてるんじゃないんよ。今更ね。
人間って成長の過程で良くも悪くも、
いろんなこと学んでて、
それは大人になってもなかなか消えないんやなあ・・と思うんよ。




それに似てるのかな・・・
ホヌ
私も 子供の時に大好きな父親を亡くして、その実感がないまま 母と姉と父親の思い出話しをしていた。

よく考えると、大好きだった父親がもういないとちゃんと受け入れず(受け入れなかった)残された者の思い出話しで笑ってきたような気がする。
お葬式にも泣かなかった。
子供なのに。
お父さんの苦しみを引き止めちゃいけない感の方が とてつもなく大きく、周囲にも そうやって励まされたから。


そして 母親は 最後意識がなくなる時、自宅の私の腕の中だった。

あの 母親の子供に返ったような表情が今も忘れられない。

あの夜の 一部始終を未だ鮮明に覚えてる。

今は 嫁いでいるとはいへ、姉が居なくならないか不安で不安でたまらない。

私の周囲だけじゃなく 世間にもこんな想いの人がいる事がたまらない。

人の喪失が 怖くて怖くて仕方ない。

あんな想いをまたするなら、それなら 自分が先に・・・とか思ったり。

もう あんな想いをするのなら・・・が 怖い。

明日も 普通の日が来ると思っていたあの日々・・・

Re: それに似てるのかな・・・
ナレイ
ホヌさん
コメント、ありがとう。

似てるのかも知れないね。

幼い頃のことって、特に大切な対象を失ったときのことは
成人してからも大きく影響するからね。

よくみんな、良かれと思って「いつまでもめそめそしてちゃいけない」とか
「こんなに泣いてばかりいちゃいけない」と言って
遺族を慰めたりしがちだけど

悲しむことは、失った対象がこの世にもういないことを受け入れるために
とっても大事なことなんだよね。
存分に泣いて、存分に悲しんで、あきらめきれない!帰って来て!なんで?!
とさんざん喚いて
時間をたっぷりかけて、どう泣いても喚いても
もうあの人はいないんだ、帰って来ないんだ・と心底失った人をあきらめることが出来たとき
初めて、失った事実を受け入れて、
笑い話に出来るし、良い思い出にも出来るのよね。

その大事なプロセスをすっ飛ばして
「いつまでもめそめそしてちゃいけない!」と無理に忘れようとするのは
自然なことではないんだよね。

>今は 嫁いでいるとはいへ、姉が居なくならないか不安で不安でたまらない。
私も、成人してからもずっと、母に対して同じ思いだった。
そしてそれは現実のものとなってしまった・・・。そう思ってしまうのは、
元々の土台がなかったからだと、私は思ってるんだよね。

どこにいても「お母さんは私の中にいる」と言う土台。

亡くし方も確かに、余りに過酷ではあったけど
30代で母親を亡くすなんてことは、そんなに珍しいことではない。

でも物凄い深い傷になってしまったのは
やっぱ土台がなかったからなんだなあ・・と思える。



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コメント
この記事へのコメント
こんな考えの人もいますという、一例を。

私は言葉を素直に受け取りがちなので・・・

「またね」は本当に「またね」だと思う。
(希望のもてる状態)

「機会があったら」の場合は
「ん?機会がなかったら、会わない?」と思う。
(所詮、ついで程度?と受け止める)
相手が私の事情を慮っている場合もあるので
言われたら「機会・・・作りましょう!」と答える。
前後の言葉とか、互いの事情にもよるけれど、
危険性の高い言葉だと思う。

「また誘ってね」と言われるともうダメ。
誘わない限り、向こうからの働きかけはないの?
(やんわりシャットアウトと受け止める)
これも前後の言葉とか、互いの事情にもよるけれど
危険な言葉だと思う。

ということで・・・私が「またね」って言ったら
本当にまた会いたいと思っているのですよ・・・

ではナレイさん、またっ ^^
2012/10/29(Mon) 17:44 | URL  | bisuko #-[ 編集]
Re: bisukoちゃん
コメント、ありがとう~♪

>機会があったら」の場合は
>「ん?機会がなかったら、会わない?」と思う。
これ同感!
てか、完全にこれは社交辞令 と私は受け取る。

>「また誘ってね」
これはそれこそ互いの事情で、
私の場合、周りの友人のほうが私より常に多忙なので
本当に会いたい と思ってて、なお且つこう言うしかないときが多々あるかな。

でもbisukoちゃんの「またね」は
いや、他の親しい友人の「またね」も
本気の「またね」なのはわかってるんよ。

私も本気で「また会おうね」と言う気持ちで
「またね」と言ってる。

頭でそれがわかってるのに、深層の部分でどっか
(もう会えないんじゃないか・・・)と感じてしまう自分がいるの。
それを自分なりにひも解いてくと、
幼少期の「対象恒常性」の確立に失敗してるなあ・・・と
思い当たるんよ。

母は私が幼い頃、私を置いてずっと死のうとしてた時期があったから。
ああ・・・まさに「安定した内的対象」を確立する時期に
母は不安定だったんやなあ・・と思ってね。

べつに母を責めてるんじゃないんよ。今更ね。
人間って成長の過程で良くも悪くも、
いろんなこと学んでて、
それは大人になってもなかなか消えないんやなあ・・と思うんよ。


2012/10/29(Mon) 18:34 | URL  | ナレイ #-[ 編集]
それに似てるのかな・・・
私も 子供の時に大好きな父親を亡くして、その実感がないまま 母と姉と父親の思い出話しをしていた。

よく考えると、大好きだった父親がもういないとちゃんと受け入れず(受け入れなかった)残された者の思い出話しで笑ってきたような気がする。
お葬式にも泣かなかった。
子供なのに。
お父さんの苦しみを引き止めちゃいけない感の方が とてつもなく大きく、周囲にも そうやって励まされたから。


そして 母親は 最後意識がなくなる時、自宅の私の腕の中だった。

あの 母親の子供に返ったような表情が今も忘れられない。

あの夜の 一部始終を未だ鮮明に覚えてる。

今は 嫁いでいるとはいへ、姉が居なくならないか不安で不安でたまらない。

私の周囲だけじゃなく 世間にもこんな想いの人がいる事がたまらない。

人の喪失が 怖くて怖くて仕方ない。

あんな想いをまたするなら、それなら 自分が先に・・・とか思ったり。

もう あんな想いをするのなら・・・が 怖い。

明日も 普通の日が来ると思っていたあの日々・・・
2012/11/02(Fri) 14:33 | URL  | ホヌ #-[ 編集]
Re: それに似てるのかな・・・
ホヌさん
コメント、ありがとう。

似てるのかも知れないね。

幼い頃のことって、特に大切な対象を失ったときのことは
成人してからも大きく影響するからね。

よくみんな、良かれと思って「いつまでもめそめそしてちゃいけない」とか
「こんなに泣いてばかりいちゃいけない」と言って
遺族を慰めたりしがちだけど

悲しむことは、失った対象がこの世にもういないことを受け入れるために
とっても大事なことなんだよね。
存分に泣いて、存分に悲しんで、あきらめきれない!帰って来て!なんで?!
とさんざん喚いて
時間をたっぷりかけて、どう泣いても喚いても
もうあの人はいないんだ、帰って来ないんだ・と心底失った人をあきらめることが出来たとき
初めて、失った事実を受け入れて、
笑い話に出来るし、良い思い出にも出来るのよね。

その大事なプロセスをすっ飛ばして
「いつまでもめそめそしてちゃいけない!」と無理に忘れようとするのは
自然なことではないんだよね。

>今は 嫁いでいるとはいへ、姉が居なくならないか不安で不安でたまらない。
私も、成人してからもずっと、母に対して同じ思いだった。
そしてそれは現実のものとなってしまった・・・。そう思ってしまうのは、
元々の土台がなかったからだと、私は思ってるんだよね。

どこにいても「お母さんは私の中にいる」と言う土台。

亡くし方も確かに、余りに過酷ではあったけど
30代で母親を亡くすなんてことは、そんなに珍しいことではない。

でも物凄い深い傷になってしまったのは
やっぱ土台がなかったからなんだなあ・・と思える。

2012/11/02(Fri) 19:56 | URL  | ナレイ #-[ 編集]
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