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ほぼ廃人と化した女が吐く、ネガティブ詩や散文
「絶望」を辞書で調べてみると

【望が絶えること。
期待・希望が持てなくなることである。
今までの考えが負の方向に大きく変わった様子。】
とある。

まさに読んで字の如くだ。

しかし私にはどうしても
「希望」と聞くと、
とても浅薄で、表層的に聞こえて仕方ない。

それにしても、やはり人と言うのは、
何事かを未来に見据えて、
そこを目指していないと、
歩いて行かれないのは、事実なのだろう。
いや、それもどうかな。
先に目指すものなんて要らない気も。

私の場合は、多分生まれ落ちて間もない頃から
人生が既に負の方向に向いていたので
「絶望」が、もはや日常になっている。

しかし、私の絶望は
全然、「価値のある絶望」になっていないと感じる。
ほぼ人生の大半を、精神の病に苦しんで来たけれど
それが何なんだ?と思う。

いや、そりゃあ辛いし、
その苦しみは、筆舌に尽くし難い
神経症を長く患っている人なら、容易に理解できる筈だ。

ただ、神経症というのは、
自ら苦しみを作り出すのが特徴だから
それをやめることさえ出来れば、すぐに楽になる。

ところがこればかりは、簡単にはやめられない
というのが困った所でもある。
やめられないから病だと、逆にも言える訳で。
なので私は、希望より夢より
「価値のある絶望」について、よく考える。

人は、深い淵に落ち、何も見えない闇の中では
きっと本能的に灯りを求めるだろう。
手探りして、必死で灯りを探すだろう。
必死で助けを呼ぶだろう。

そこでもし、灯りを見つけられたなら
それこそが「いのちの力」であり、
この深い淵をこそ、「価値のある絶望」
と呼ぶのだろう。

つまり、辞書に沿って言えば
負の方向にいながらにして

正でも負でもない、自分を超えた道、
大いなる世界へと通じる道を、見つけたときこそ
絶望は、価値のあるものとなり
小さな灯りが、大きく輝くのだと思う。

それは、そこそこの希望とやらを持っている人には
決して見えない灯りだ。
深い淵の中でしか、掴めない灯りなのだから。

つまらない絶望や薄っぺらな希望にばかり
囚われていないで
もっともっと深い淵へ落ちて行けば良いと思う。

そこで灯りを見つけられるかどうかは
私の「いのちの力」次第 ということになろう。

闇しか見えない深い淵で
灯りも、食べる物もなく
朽ち果てて終わりかも知れない。
それならそれで良いじゃないか。

とにかくもっと落ちてみなければ
「価値のある絶望」には
到底、辿り着けない。







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FC2blog テーマ:エッセイ・散文 - ジャンル:小説・文学

【2019/09/06 00:03】 | 神経症
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